第三回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート
第三回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

第三回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

2024年5月7日火曜日に第三回ラッセル読書会がありました。
15頁の最後の段落「実在のテーブルが..」~18頁の2段落目の最終行「…心の集まりだとしたりする」まで読みました。

前回は、「センスデータ sense-data」が議論になりました。
今回は物質とセンスデータとの関りにいて読みました。
その観点から、ラッセルは「観念論」を例に挙げ、観念論の議論は誤りであると主張することになります。

二つの問

前回は、現象と実在の関係を考察することで、「(1)そもそも実在のテーブルはあるか。(2)もしあるのなら、それはどんな対象でありうるのか」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 14-5頁)という問を形成したことをみました。

ラッセルは、その問を「(1)そもそも物質のようなものがあるか。(2)もしあるのだとしたら、その本性はなにか」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 15頁)と言い換えて、非物質論を展開したバークリの観念論を検討します。

ラッセルは、バークリが(『ハイラスとフィロナウスの三つの対話』で)、「物質など存在しないこと、そして、世界を作り上げているのは、心と心が抱く観念だけだということ、この二つを証明した」ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 16頁)としています。

したがって、バークリはラッセルが提示した(1)を否定しています。
それでは、どのような形でそれを否定しているのでしょうか。

物質は否定するが、私たちから独立した何かは存在する

バークリは、私たちから独立した何かの存在は認めるものの、心と対比された物質は否定します。

ふつうの意味では、「物質」は「心」と対比され、空間内にあるが、そもそも何かを考えたり意識する能力を持たないとみなされている。バークリが否定するのも、主にこの意味での物質である。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 16頁.

バークリは心による機能をもたない存在が、私の知覚の外部に存在するということのみを否定しました。つまり、私の心とは独立した何かが、心的なものであれば、その存在は許されるのです。

テーブルの存在の記号であると誰もが見なすセンスデータが、本当に私たちから独立な何かの存在の記号になっているということは、バークリも否定しない。この何かが心的でないということ、すなわち心でも、誰かの心が抱く観念でもないことを否定しているのである。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 16-7頁.

したがって、私が知覚していないときに、テーブルがある(私の知覚と独立して存在する)と言えるのは、テーブルが物質であるからではなく、テーブルが何らかの心が抱く観念であるからとバークリは結論します。バークリはその何らかの心を神の心とします。誰もない部屋にテーブルがあると言えるのは、人間ではない神のような存在がいると考えるしかないのです。

観念論の否定

ラッセルは、私の心とは独立したテーブルの存在を肯定するために、何らかの心を規定する考え方を観念論と呼びます。
この何らかの心は神であっても、宇宙内の心であっても、人間のようには発達していない無数の心であっても構いません。

ラッセルはこのような観念論は間違っているといいます。

おわりに

今回の箇所は以上までになります。
テレビや漫画のように、次が気になる箇所で時間がきた感じになりました。
次回もよろしくお願いいたします。

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