第二回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート
第二回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

第二回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

2024年4月23日に第二回ラッセル読書会がありました。
12頁の2段落目「テーブルに…」~15頁の3段落目の最終行「…それとセンスデータとの関係が問題になる」まで読みました。

前回は、「現象 appearance」と「実在 reality」が問題になりました。
今回は「センスデータ sense-data」が重要な概念となります。
現代哲学でもよく用いられる概念です。

実在のテーブルは存在するのか

様々な現象(現れ)に対して一通りの仕方で説明できる実在があるのではないか。
このような方向性で考えるのが日常の考えであり、哲学者もそうであると前回みてきました。

しかし、現象を確認してみると、実在だと思っていた「テーブル」は直接経験されるものではないことがわかります。
日常的に「そこにテーブルがある」と経験しているわけですが、ラッセルは様々な現象を確認して(11-4頁)、テーブルは私たちが直接経験している実在ではなく、諸現象から推論されるもの(推論によって経験されるもの)であると主張します。

それでは直接経験されるものとは何かと言えば、諸現象において様々な仕方で「見たり、触れたり、聞いたり」できるものであると考えることができます。

もし本当にテーブルが存在するのだとしても、それは直接経験されるものと同じではなく、見たり、触れたり、聞いたりできないことが明らかになる。実在のテーブルが存在したとしても、それは決して直接には知られず、直接知られるものから推論されなければならないのだ。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 14頁.

実在だと思っていたテーブルが、直接経験されているわけではなく、どうやら推論によって(間接的に)経験されているらしいのです。

以上の議論からラッセルは次の二つの問を形成します。

  1. そもそも実在のテーブルはあるのか。
  2. もしあるのなら、それはどんな対象でありうるか。

直接経験されるものとは違う、テーブルの身分を探るというのがしばらくの主題になります。

センスデータ

この問に答えるためにまず提示されたのが、センスデータです。
センスデータとは、先ほど出てきた「直接経験されるもの」です。
つまり、色、音、におい、硬さ、手触りなどです。

様々な例(11-4頁)でみたように、とりあえず、諸現象に現れるそれらは「直接経験されるもの」なので、議論に用いることができます。
「直接経験されるもの」であるセンスデータをとっかかりとして、実在のテーブルを検討していくわけです。
センスデータから、いかに実在のテーブルが推論されるのかを検討し、その存在について考えようとします。

なので、「実在のテーブルがあるとすれば、それとセンスデータとの関係が問題になってくる」とラッセルは言います。

感覚

ここまでは読書会で何とか共有できたと思いますが、センスデータと「感覚(sensation)」の関係について理解を共有するのが困難でした。

コインは、上からみたら円に見えたり、横からみたら楕円に見えたりするわけですが、円や楕円という直接経験されるものがセンスデータです。
一方で感覚は、センスデータを直接意識している経験であると言います。
ですから、センスデータは対象のような存在です。

ところで、このような考えは、心の中に生じる単純観念と重なる部分があるかもしれません。
しかし、どうやらラッセルは、センスデータを心の中に(のみ)あるものと想定していないようなのです。
詳しくは、訳者解説(264-5頁)に書いてあり、私もこの考えに同意しております。

そうすると、「心の内部にセンスデータがある」というイメージで感覚を捉えることができなくなるのですが、そのことを共有するのがとても難しいと感じましたし、私自身まだまだ理解できていないな、と痛感しました。

現象主義

センスデータは心の内部(のみ)における対象ではないと私は解釈していますが、多くの論者がセンスデータが心の中にあると解釈してきたことはたしかです。
またラッセルから離れて、現代哲学ではセンスデータは心の内部に直接与えられたものとして用いられています。

知覚において直接的に見えているのは、物的対象ではなく、意識に「現れる」限りでの対象である。こうした意識に直接与えられるもの、所与としての対象をセンス・データという。現象主義は、センス・データこそ知覚の対象であると考え、物的対象に対するその先行性を主張し、物的対象は、規則的に現象してくるセンス・データからの論理的構築物に他ならないと考える立場である。
 現象主義は、知覚する心から独立した物的対象の存在を否定する点において観念論的な主張であり、観念論の項目で述べたバークリの思想との親近性が指摘されることが多い。

浅野光紀「現象主義」, 『心の哲学』, 信原編, 新曜社, 2017年, 17頁.

しかし、心の内部にセンスデータがあるものとして考えてしまうと、ラッセルが批判しているバークリの観念論に近づいてしまいます。

センスデータに関して、二つの解釈に注意しつつ、ラッセルの微妙なニュアンスを読解していければいいなと思っています。

おわりに

センスデータを心の内部(のみ)にある観念のように捉えないというラッセルの方法(一つの解釈)は、これまでの哲学の諸問題を中立的に扱いうるものであり、非常に面白い概念だな、と感じています。
今後ラッセルがどのように他の哲学と距離をとっていくのか、をみていくのがすこぶる楽しみです。

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