第一二回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート
第一二回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

第一二回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

2024年9月17日に第一二回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
45頁第4章のはじめから、47頁第一段落の終わりまで読みました。

前回は第3章「物質の本性」を読み終えました。そこでは、物質の本性は「感覚によっては」知ることができない、ということがわかりました。

それに対して、物質は、実際には心的なものであり、その本性は心的であるとしたのが観念論でした。
ものすごくざっくりした説明になってしまいましたが、ラッセルはそのような観念論を批判しようとしています。

今回から第4章「観念論」に入り、ラッセルのこのような見解が詳述されていきます。

なぜ観念論を検討するのか

ラッセルはまず本書で扱う観念論の意味を明確にします。
本書で扱う観念論は、「存在するものは〔略〕すべてある意味で心的でなくてはならないという説のこと」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 45頁)としています。

ここでの観念論によれば、目の前にある机やコップ、空に見える太陽や月は、物質ではなく、心からなる何かであることになります。
しかし、常識的には、それらは、「心やその中身とは根本的に違った何かだと常識的に考えられ、心がなくなったとしても存在し続ける」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 45頁)と言えるでしょう。
心が関わらなければそれらが存在しないとは到底思えません。

「しかし」とラッセルは言います。「たとえ間違っていたとしても、観念論は「不合理なのは一目瞭然だ」と片付けられるものではない」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 46頁)のです。

それではなぜ簡単に片付けることができないのでしょうか。

第3章の主張を繰り返すことになりますが、それは物質の本性が実際のところ何なのか私たちには〔いまの段階では〕わからないからです。
物的対象があることは認められるとしても、センスデータによってその本性は分からないということを第3章ではみました。
物的対象とセンスデータとの関係は「カタログとそこに掲載されている品物が対応するのとちょうど同じ対応関係があるにすぎない」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 46頁)のです。

そのため、いくら常識的に観念論が奇妙な考えだと思えても、私たちはカタログしかもっていないのだから、実物を知っていると主張する人の言葉に耳を傾ける価値はあるのではないか、とラッセルは言います。

そう考えるのは奇妙に思われるという理由だけで、その意見を退けるのは決して正当ではない。物的対象についての真理は、奇妙なものにちがいない。また、手に入れる望みのない真理だということすらありうる。しかし哲学者がその真理を手に入れたと信じているのなら、ただそれが奇妙だというだけで哲学者の提案に反対してはならないのである。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 46頁

バークリの観念論

本章でラッセルが耳を傾けるべきであるとしている哲学者は、バークリです。

ラッセルは彼を「私たちに知られうるものであるために、物が満たさなければならない条件」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 46頁)に初めて取り組んだ哲学者としています。

条件を見出す手順は、(ラッセルの説明では)二つあるように思います。

まず、センスデータの一部が「心の「中」にある」ことの確認です。
バークリ自身はセンスデータではなく、観念といいいますが、彼はまずセンスデータが私たちから独立に存在することはなく、少なくともとの一部は「心の「中」にある」とします(ラッセルが言うには)。

具体例がほしいところですが、例えば、近くで見たら四角い塔が遠くから見たら丸いとき、その四角や丸は私たちに依存しているように感じます。
幾何学図形や延長が心の中にあるとは言えないかもしれませんが、私たちに依存するセンスデータの中でも、色や痛みなどのセンスデータは私たちの「心の「中」にある」ように思われます。

そして、この「心の「中」にある」という意味は、「見聞きせず、触れたり嗅いだり味わったりしないならセンスデータは存在し続けないだろうという意味」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 47頁)だとラッセルは言います。
今回はそこまで重要でないのですが、この留意は後々の議論で効いてくるので、一応書いておきます。

ここまではラッセルは同意できるといいます。ただし、「心の「中」にある」という表現は後々訂正します。

次に、バークリがしたのが、知られるものはすべて心の中にあるという主張です。
ラッセルはこの二つ目の条件を否定することになります。

ここの文章はあまりラッセルはうまく書けていないように感じます。
「知られるものはすべて心の中にある」という主張については、どうしてバークリがその主張をしたのかをラッセルが議論しているのではないからだと思われます。
それよりも、その主張の結果どうなるのか、というのが重点的に書かれています。
整理すると次のようになるでしょうか。

  • センスデータだけがその存在を確信できる何かである。
  • 知られるというということは心の「中」にあるということであるため、知られるものは心的でなければならない。
  • ところで、存在が確信されたセンスデータには、私の心の中にあると言えないものがある。
  • したがって、私の心の中に無いにもかかわらず知られるものは、他の何かの心にある心的なものでなければならない。

「存在が確信されたセンスデータには、私の心の中にあると言えないものがある」とありますが、これはどのようなものでしょうか。先ほどの幾何学や延長なんかは心の中に無いように思えます。また、さっき見たけど今は見ていないコップの赤さとかでしょうか。

しかし、そのような、知られるために心的な何かであるにもかかわらず、私の心の中にない何かは、他の心の中になければならないといいます。

なお、バークリは、私が見ていないときに存続しているはずの椅子や太陽など(これらはセンスデータではない!)も、他の何かの心にある心的なものと言っているのに加え、ここまで論じた点におけるバークリの議論の中心はセンスデータではなく、椅子や太陽などの観念なので、ラッセルの議論は、用語の使い方が非常に曖昧になってしまっているように感じます。

ここでラッセルが言いたいことを非常に簡単に言えば、バークリは、私が私の心の中におけない、私の心の中に独立してい想ん事柄までも、他の何か(神)の心にある心的なものにしてしまったということになります。

主観的観念論への疑問

読書会では、バークリの観念論について非常に多くの議論をしました。

その中で白熱したのは、バークリの(神無しの)主観的観念論を主張したら、何も脈絡もなく色覚異常の人が突然何らかの色が見えるようになっても、道理が通ることになるのではないか、というものでした。

このご指摘はまったく正しいです。懐疑論的に解釈したヒューム(あるいは、私が見ているのは夢にすぎないという議論)を仮想敵にした議論になりそうです。

私たちは日常的に心の外部の秩序を前提として過ごしています。

トラックが迫ってくれば、時間とい秩序に従って、外部にあるそれが、私にぶつかりそうになることを感じます。
また、火山が噴火すれば、そのこには何らかの理由があると思い、それを探求しようとする人もいます。そして、その理由は心の外部にある秩序といえます。

それに対して、外部の秩序をすべてを否定し、心の中でのみ存在が成立するとしたら、その成立の根拠は何もない(外部の秩序から与えられない)ということになります。
私に赤や青が見えていたとしても、それには何も理由がないのです。

したがって、色覚異常の場合でも、そこに外的な理由(身体の機能をもとにした理由)がないのですから、現在たまたま色覚異常なだけで、次の段階に何の理由もなく、様々な色彩を目にすることになっても、何ら不合理ではないということになってしまうのです。

このように、極端な形で主観的観念論を提示してしまえば、日頃から科学をしている人からすれば、何とも受け入れがたい理論になってしまっていると言えるでしょう。

おわりに

今回は3頁程度といつもより頁が進まなかったのですが、いつもよりもレポートの文字数が多くなってしまいました。

議論が膨らむのは非常に楽しいものです。

次回はさらにバークリの観念論を(ラッセルの視点で)詳述していくことになります。

それでは!

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