第一三回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート
第一三回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

第一三回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

2024年10月8日に第一二回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
47頁の二段落目の一行目「バークリの議論を…」から、51頁第一段落の終わり「…ことではなかった。」まで読みました。

前回から第4章「観念論」に入ったのもあり、前回は観念論の基本的な立場を確認しました。

前回はセンスデータに関する議論を中心としておりましたが、今回は物的対象についての考察が中心となります。

バークリにおける物的対象

前回はセンスデータに限定した話をしていましたが、センスデータはバークリの用語ではありません。
バークリはその代わりに観念という言葉を使います。
観念はセンスデータと似ていますが、より広い事柄を含みます。
感覚に直接与えられる赤や手触り(センスデータ)も観念ですし、机や太陽、記憶や想像されているものも観念になります。

そのために、前回の議論(知られるもの(存在するもの)はすべて心の中にあるという主張)はもちろん机や太陽にも当てはまることになります。

机や太陽などの存在するものはすべて、心の中に(知覚されてい)なければなりません。
これが有名な、esse(存在すること) is percipi(知覚されること)です。
esseとpercipiはラテン語で、英語だとbeingとperceivedです。

ところで、この考えに則ると奇妙なことが起こります。
私がまばたきなどして、机を知覚していないとき、それは存在しなくなってしまうのです。

しかし、私たちは、それを知覚していなくても、それが存在し続けていることを知っています。
これまでのラッセルの議論ですと、私がそれを見ずにセンスデータがなくても、センスデータを提示するであろう物的対象が存在すると、私たちは常識的に受け入れていることと議論が重なります。

ラッセルはそれをあくまで「物的」と考えますが、一方で、バークリは私たちが知覚していないときにも存在するもの(知られるもの)は、何らかの心の中にある心的なものと考えます。
したがって、バークリは、私たちが知覚していないときも存在し続ける何かを肯定するには、常に神の心がそれを知覚していなければならないと結論します。

そのため、「私たちが知覚するということは、つねに神に知覚の一部を分けてもらうこと」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 48頁)になるのです。

バークリへの批判

バークリの議論に完全に沿うかはいささか疑問ですが、ラッセルは以上のようにバークリの観念論を特徴づけました。
次は、バークリの観念論の批判に入ります。

まずラッセルが行うのは、表面上からみた簡単な批判です。
その後、「観念の本性の問題」を議論し、十全な批判を試みようとします。

簡単な批判は、心の中にあるという言葉の曖昧さ、それによる観念という語の混乱を挙げています。

心の中に木という観念があるというとき、木そのものが心の中に存在するわけではないということです。
端的に言えば、木そのものが心の中にあるのではなく、「木についての思考が心の中に」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 49頁)あるということしか言えていないということです。

ラッセルによる次の例は非常にわかりやすいです。

「仕事の準備をしなければならなかったのだが、そのことは心の中から追い払った」と言う人は、仕事そのものが心の中に居すわっていたと言うつもりはなく、以前はその仕事についての思考が心の中にあったが、後になってなくなったと言ったにすぎない。

(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 49頁)

このような観念に関するひどい混乱(木についての観念を木そのものと考えてしまうこと)は、観念の本性の問題を議論することで解きほぐされるとラッセルは言います。

観念の本性に関する問題

とはいえ、観念の本性に関する問題が一体何なのかが明確に書かれていないように感じます。

その問題は、「センスデータと物的対象の違いに関する問題」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 50頁)のようではあります。

しかし、前述したバークリに対する批判に関する「センスデータと物的対象の違いに関する問題」ではないようです。

そうではなくて、「意識されるもの」(例えば、テーブルの色)と「意識そのもの」(ものを捉える心のはたらき)という「まったく異なる」二つのものを区別した際の「センスデータと物的対象の違いに関する問題」であるようです。

この問題?は次のように解決されます。
何らかの観念が心の前にあるとき、その観念が生じるかいなかは、心がそれを捉えているか否かによって決まります。
しかし、だからといって、その観念そのものが心的であることにはなりません。
なぜなら、その際に「心の中」にあるのは、その観念を捉える意識そのものでしかなく、「意識によって捉えられたもの」は心の中にあるとはかぎらなかいらです。

例えば、テーブルの色を見ているときに、その色は、「テーブル―色―心」という関係のもとに見えていることがわかります。
心とテーブルとの関係のもとで、その色はあるのであって、「心の中」にはないのです。

そのためラッセルはその色が「心の前」にあると表現します。

おわりに

今回は、議論が難解な箇所にもかかわらず、説明不足である箇所でした。

ラッセルが少し急ぎ足になってしまったように思える文章でした。

まず、バークリの観念と、ラッセルのセンスデータとの概念の違いを明確にし、その上で、物的対象にかかわる観念を扱ったバークリの議論をセンスデータ論に変換し、最後にセンスデータ論に変換された議論に対する「意識されるもの」と「意識そのもの」を導入することによる批判という順序の論述が必要なように感じました。少し贅沢でしょうか。。笑

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