2024年10月22日に第一二回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
51頁の二段落目の一行目「色が心の中に…」から、55頁第二段落の終わり「…おかなければならない。」まで読みました。
前回は、バークリ批判を扱いました。かなり難解だったように感じます。
今回は次の章のつなぎという感じで議論が展開していきます。
物を捉えるはたらきと、対象との区別
この区別に関しては前回確認しました。
単純に考えれば、テーブルの色は目をつぶればなくなりますが、テーブルがなくなってもなくなります。したがって、色は「心の中」にあるのではなく、「テーブル―心」(あとは光や壁も含まれるでしょう)との関係の中にある対象であることがわかります。
その対象は「心の中」ではなく、「心の前」にあるのであり、対象を捉える心の働きとは区別されるのです。
したがって、ある対象を面識するということは、「心とそれ以外のものとの関係にあり、これこそが物を知る心の能力を作り上げている」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 52頁)、とラッセルは言います。
つまり、面識することで、「心の前に」という、心とそれ以外のものとの関係ができ、この関係こそが「もの」を知る能力をつくっているといいます。
すべてが「心の中に」あるという関係をもちだしてしまえば、私たちが知ることができるものは非常に狭められてしまうでしょう。その結果、バークリに対する主観的観念論解釈も生じてしまうのです。
知られている物は心の中になければならないと言うなら、それは知るという心の能力を不当に制限する
ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 52頁
とラッセルは言います。
二つの知る
「知る」という言葉について、先ほどの面識としての知ると、そこから外部世界の知識へと拡張する能力に関する知るの二つがあるとラッセルは言います。
これは、次の章で詳しく扱う話題です。
前者が「ものに関する知識」で、後者が「真理の知識」です。
ひとまず次のように考えるとよいでしょう。
例えば、「青」を見たことがなくても、それについてたくさんの知識をもつことができます。波動が眼にあたると見えるものであり、赤と比較すると短い波長であり、など。
これが真理の知識です。
しかし、いくらそのような知識をもっても、「青」という色が実際どんな色をしているのかわかるわけではありません。
青いもの、例えば、青い空とであってはじめて青というものがわかります。
これが面識による、ものに関する知識です。
とはいえ、青を面識し、それをじっと眺めても、青に関する様々な知識(真理の知識)が自然と入っていくるわけではありません。
また、「中国の皇帝」というように、面識したことがなくても、それが存在すると知っている場合もあります(真理の知識)。
これらの「知る」とは一体どのような事態なのでしょうか。
おわりに
次回は、第5章に入り、二つの知るについて理解を深めていきます。
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