2024年11月5日に第一五回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
55頁の最終段落の一行目「存在するものを面識しているなら…」から、59頁第一段落の終わり「…と言うことにする。」まで読みました。
前回は、二つの知るが登場して終わりました。
今回から第5章に入り、それらの知るについて詳しくみていきます。
センスデータ論も魅力的ですが、真理の知識を形成する時に用いられる、推論(一般原理)の吟味も同書の魅力だと思います。
面識せずに正しく判断するとは
私たちは、「中国の皇帝」や「フランスの首都としてのパリ」など、見たことや行ったことがなくても(面識していなくても)、その存在があることを正しく判断することができます。
今回からはこのように、「面識せずに正しく判断しているときに生じている」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 55頁)ことを吟味していきます。
その生じていることとは、
「記述を介してものを知る」ということと、
「その記述にあてはまるものの存在を」、「面識しているものの存在から」、「一般原理を通じて推論している」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 55頁)ということ
の二つになります。
そして、第5章では、この二つのことを吟味するための準備として、記述による知識と面識による知識を扱うことになります。
第5章の後は、「自分の経験が存在する」という私たちにとって最も確実な知識と比べて、一般原理(を用いた推論)による知識はどれほどの確実性をもつのかが考察されます。
ここまでの整理
「二つに分ける」という方法が多用されたので、少し混乱してしまいそうです。
以下、これまでの「二つ」をまとめてみましょう。
ラッセル自身、あまり厳密に分類していない気もしないではないですが。
・知識:ものに関する知識(=面識による知識)、真理に関する知識
・知る仕方:面識、記述
・面識せずに正しく判断している際に生じていること:「記述を介して知る」。「記述によって知っているもの(例えば、物的対象)を、面識しているもの(例えば、その対象に関する色など)から、一般原理(例えば、(自然は)因果性(をもつ))を通じて推論している」こと。
記述と面識
私たちは日常的に、「中国の皇帝」や「フランスの首都としてのパリ」など、見たことや行ったことがなくても(面識していなくても)、その存在があることを正しく判断していることを、先ほど確認しました。
ここで、より厳密に面識を考えれば、私たちは目の前にある机を面識しているわけではないことがわります。
このことは、第一章からの議論で言われてきたことでした。
しかし、私たちは目の前に机があることを正しく判断しているはずです(第二章の本能的信念とつながる議論かと思います)。
これから見ていく「記述」は、私たちが素朴に「そこに机がある」と考えるときの状態が何なのかを、明確に取り出した概念とさしあたり考えておきましょう。
初めてここの部分を読むと、「記述」は実際に筆記することを思い浮かべそうですが、私たちが日常的に行う素朴な判断をわかりやすくした概念なのです。
おわりに
面識による知識と真理に関する知識の違いについて、読書会メンバーが「百聞は一見にしかず」という表現をしていて非常に正鵠を射る表現だ、と思いました。
青に関する真理の知識(波動であるなど)をいかに把握しても、青の色そのものが頭に思い浮かぶわけではありません。
実際に、青を見なければその色そのものを理解することができないのです。
次回は面識と記述についてさらに議論が深まっていきます。
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