2024年6月11日に第五回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
23頁の最終段落「近代哲学の創始者であるデカルト…」から、26頁の始めの段落の最終行「…臆するようではならないのだけれども。」まで読みました。
第四回で見たように、今回読む第二章でラッセルが論じていくのは、私たちが知覚する事柄が(、夢ではなく物質に関連した事柄であると証明することはできないが、しかし)本当に夢であると想定する理由は存在しない、ということでした。
今回は、まず私たちの知覚において疑われない事柄(最も確実なもの)は何かを論じ、次に外部実在に関する考察の導入部分に入りました。
最も確実なものとは何か
ラッセルは「テーブルが物体として存在することを疑うとしても、テーブルは存在すると考えさせたセンスデータが存在することは疑わない」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 23頁)という議論を補強するために、一度デカルトの方法的懐疑に言及します。
デカルトが方法的懐疑によって、「われ思う、ゆえにわれあり」によって自分の存在が確実であることを見出し、そこから「疑いによって荒廃させた知識の世界の再建」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 24頁)にとりかかったことをラッセルは確認します。
しかし、ラッセルは、デカルトの方法的懐疑によって肯定されたのは、せいぜい知覚内容をもったその都度の私(何かあるいは誰か)であって、決して「私(何かあるいは誰か)が茶色を見ている」、「私(何かあるいは誰か)が甘い香りを嗅いでいる」などのすべての「私」を統一して持続しているような「私」(自我)ではないと批判します。
長くなりますが、引用します。
確実性を厳密にとるなら、「われ思う、ゆえにわれあり」は余分なことまで言っている。昨日と今日とで自分は同一の人物だと私たちはかたく確信しており、またある意味でこれは疑いなく正しい。しかし実在の[本当の]自我は、実在のテーブル同様到達しがたいもので、一つ一つの経験にお備わる、絶対的で納得せざるを得ない確実性をもっているようには見えない。テーブルを見つめて茶色が見えているまさにその時、きわめて確実であるのは、「私が茶色を見ている」ではなく「茶色が見られている」である。もちろんこれは、茶色を見ている何か(あるいは誰か)を含んでいる。しかし「私」と呼ばれている、多少なりとも存在し続けている人物を含んでいるわけではない。直接の[経験が持っている]確実性が示すかぎりでは、茶色を見ているものがきわめて刹那的で、次の瞬間に別の経験をする何かと同一ではない可能性が残る。
ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 24-5頁
デカルト批判に関しては、ほとんど引用した部分がすべてになっています。
脱線してしまいますが、引用を読んでいて一つ疑問が湧いてきます。
「われ思う、ゆえにわれあり」によって肯定されるのが刹那的な何かあるいは誰かであったとしても、その都度肯定され確実だと言えるのは、デカルトの議論に沿えば、「茶色が見られている」というような知覚内容と刹那的な何かあるいは誰かではなく、刹那的な何かあるいは誰かのみ(疑う度ごとに肯定される刹那的な私)にすぎないのではないか、ということです。要するに、知覚内容の確実さはデカルトの議論のどこから言えることなのでしょうか。おそらく、長い論証を省いてラッセルが挿入した考えだと思っています。
とはいえ、机の「茶色が見られている」場合も、悪霊の仕業で「茶色が見られている」場合も、「茶色が見られている」という事実は変わりません。したがって、デカルトの議論から、「茶色が見られている」が確実であると結論するのは、なんとなくは納得いくかと思います。
「茶色が見られている」について、読書会メンバーがパースペクティブの形成とも表現してくださいました。何ものかのパースペクティブが生じ、そのパースペクティブが「茶色が見られている」という状態になっているイメージです。その都度生じているパースペクティブとそれがもつセンスデータのみが確実であり、そのあり方が実在と関わるのか、夢であるのかはそのあり方の確実性には影響を与えないということになります。的確な表現かと思います。
このように、ラッセルはデカルトの議論を通して、確実な知識は「茶色が見られている」などのパースペクティブをもとに並べられたセンスデータであると結論します。
机によって「茶色が見られている」場合も、夢において「茶色が見られている」も、「茶色が見られている」という点は確実な知識となっています。
この確実な知識から議論をはじめて、ラッセルは物的対象(物質)について考えるのです。
センスデータとは異なる何かが存在するのか
それでは、そのような確実な地盤から議論をはじめて、物質について考えてみよう、とラッセルは言います。
テーブルを知覚しているとします。では、それに関するセンスデータをすべて数え上げたとき、テーブルに関する私たちの知覚は充分に論じられたといえるでしょうか、言うべきことは何も残っていないと言えるでしょうか。
「常識」は、まだ何かが残っている、と言うでしょう。
ラッセルは次のように述べています。
常識はためらうことなく「残っている」と答える。センスデータをただ集めただけの物は、売買したり、乱暴に扱ったりテーブルクロスをかけたりできない。クロスがテーブルをすっぽりと覆ってしまったら、テーブルからはセンスデータがまったく得られなくなる。それゆえ、もしテーブルがセンスデータに他ならないとすると、テーブルは存在しなくなり、クロスは奇跡的に、以前テーブルがあった位置に浮かんでままだということになる。これは明らかに常識に反している。
ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 26頁
確実な知識として認められるのは、「茶色が見られている」などのあり方をするパースペクティブによって並べられたセンスデータでした。
しかし、私たちが日常生活において、テーブルを知覚しているとき、その知覚に求めているのはそれ以上のものです。
それは、売買したり、壊すことのできる何かでありますし、テーブルをテーブルクロスで覆って、テーブルのセンスデータをなくしたとしても存在しているような何かであります。
このように常識におけるテーブルの知覚のあり方を確認した後に議論はどのように進むのでしょうか。
それは次回以降見ていくことになります。
・開講中の講座
・過去の講座
・哲学史を学んだことのない人のための入門書案内
←哲学をするには基礎知識を摂取する必要があります。読書会でも丁寧に解説しますが、まとめて知識を得たいという方はこちらを参考にしてみてください。
メールマガジン:https://www.mag2.com/m/0001697792?reg=touroku-card
←哲学の名言と解説を載せたメルマガを毎週発行しております!
X(旧Twitter):https://twitter.com/philotoariston
Threads:https://www.threads.net/@ philotoariston