第六回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート
第六回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

第六回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

2024年6月25日に第六回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
26頁第二段落「センスデータだけでなく…」から、30頁の始めの段落の最終行「…フットボールができないのと同じことだ。」まで読みました。

前回は、最も確実な知識をデカルトの議論を通して確認した後、物的対象に対する常識の見解をみました。
今回は前回確認した常識をさらに深く検討していきます。

物的対象を認めておきたい理由

前回常識は、センスデータのみならず、物的対象の存在も認めていました。
では、その理由はなんでしょうか。
ラッセルは、公共的で中立的な対象がなければ、同一対象を語れなくなるために、常識は物的対象を認めていると言います。
例えば、目の前にあるコップは、私的なセンスデータによって成り立っていますが、このコップは私にだけしか見えていないコップなんだというのはなんだかおかしな感じがします。

十人で食卓を囲むとき、その人たちは同じテーブルクロス、ナイフ、フォーク、スプーンを見ていないと主張するのは馬鹿げているのではないか。しかしセンスデータは各人に私的である。誰かの視界に直接立ち現れてれいるものは、その他の人の視界には直接立つ現れてない。彼らはみな少しずつ違った視点から物を見ているので、物は少しずつ違ったように見えている。それゆえ、公共的で中立的な対象があるはずであり、そしてそれが複数の人によって何らかの意味で知られるのだとすれば、各人に現れる私的な個々のセンスデータに加え、さらなる何かがなければならない。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 26-7頁

このように、センスデータの様々な差異にもかかわらず、何らかの一つの対象を設定し、それに基づいて私たちは行動しています。
もしそのことを認めないとしたら、友達に何かをプレゼントしようとしても、「私が今見ているセンスデータをあなたにプレゼントしたいのであって、今あなたが見ているセンスデータをプレゼントしたいのではない」ということになってしまいます。

物的対象を認める常識の根拠と、常識への反論

それでは、そのような公共的で中立的な対象を信じる根拠は何でしょうか。

常識は、いくら私的なセンスデータとはいえ、テーブルのセンスデータはだいたい似ているし、実際に他の人との関りのなかで公共的で中立的な対象の指示はうまくいっている、ということを根拠として提示します。

なお、以上の根拠は27頁の第二段落の要約なのですが、ラッセルの説明は少し混乱しているように感じます。あとに見る反論は他者概念の導入を軸とした批判になっているのに、そのことがはっきりと強調されている文章とは言えません。
ここでは、その点を強調して書いてみました。

とりあえず、私のテーブルはいつも大体似たセンスデータを示すし、私が部屋を出てそれを知覚していないときも存在しているし、私がそのように捉えているなテーブルと大体同じそれを他人も認め、他人にそれを売ることもできます。

しかし、他人に関して言及した途端、私たちはこれまでのルール(確実な知識、センスデータから議論をはじめよう!)から外れてしまっていることがわかります。
つまり、常識は物的対象を主張する根拠を、確実でない事柄から密輸入することで導入している、という構造になっているのです。
余談ですが、このような前提外からの密輸入は、いつもの議論で気づかないうちにやっていたりします。

しかしこうした考えは、自分以外にも人がいると言う想定に頼っている以上、今まさに問題にしていることの答えを先に決めてかかっている。他者が私にその姿をあらわすのは、見た目や声など、何らかのセンスデータを通じてである。それゆえ、もし自分のセンスデータから独立に物的対象が存在すると信じる理由が何もないなら、自分の夢の一部ではない他者が存在すると信じる理由もないはずだ。したがって、自分のセンスデータから独立に対象が存在するに違いないことを示すためには、他者の証言には頼ることができない。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 27-8頁

このようにして、常識が提示する根拠は否定されます。
しかし、だからといって、常識の見解、つまり物的対象が存在するということは否定されるべきではないのではないか、とラッセルは言います。
次はそのことについてみていきましょう。

それでも常識を認める理由

ラッセルは、物的対象が存在することは決して証明できないといいます。
私が見ているのが夢であると想定したとしても、そこから論理的に不都合な点は帰結しないのです。

しかし、とラッセルは次のように言います。

しかし論理的に不可能ではないとしても、正しいと想定すべき理由もまったくないのである。それどころか、日々の生活の中で起こる諸事実を説明する手段としては、人生全体が夢だという仮説は、私たちから独立に対象が本当に存在し、それが私たちに及ぼす作用こそ感覚の原因なのだとする常識的な仮説に比べ、単純さでは劣るのである。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 29頁

ラッセルは「単純さ」という点から、常識の見解の方が優れていると主張します。
この「単純さ」について詳しく知りたいところですが、彼はあまり詳しく書いていないようです。

例えば、科学においては、計算が煩雑な理論と、計算が容易な理論があり、二つとも論理的に矛盾しておらず、結果もほぼ同じ場合、計算が容易な単純な理論の方が優れているという考え方があります。
また、一般的には、必要以上に多くの事柄を想定してはならない、という考え方もあります(オッカムの剃刀)。

ラッセル自身は猫の例を挙げています。
A地点で猫のセンスデータを見た後に、B地点でそれを見た場合、物的対象を想定しなければ、猫はA-B間を移動したのではなくて、猫のセンスデータがA地点で見た後に、B地点にそれが突然現れたことになります。
また、私の空腹の経験から、猫がどのようにお腹がすくのかは容易に想像できますが、物的対象を想定しない場合、私が猫のセンスデータを知覚していない間に猫に食欲がわいていると考えることができなくなります。
私が帰宅後、いままで存在を中断していた猫のセンスデータが突然空腹状態で存在すると考えなければなりません。

ラッセルの挙げた例から「単純さ」を読み取るのはなかなか難しいと思います。
ラッセルが批判する観念論は、そのようなことを説明するために、つじつまを合わせる神などを想定して、想定を増やしていって単純さを欠いていくので、そのことを考えているのでしょうか。

それとも、受け入れやすい、無理のないという意味での単純さでしょうか。

おわりに

読書会では、複雑であってもうまく説明できていれば、理論的にどちらが誤りとは言えないのではないか、という疑問があり、議論が盛り上がりました。

次回は常識を受け入れることに関して、さらなる議論が展開されます。
第二章も終わるころで、第三章ではいよいよ物質の本性を探求していきます!

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