第七回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート
第七回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

第七回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

2024年7月9日に第七回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
30頁の第二段落一行目「だが、猫の場合がいくら…」から、33頁の終わりまで読みました。

前回は、常識が想定する物的対象を、ラッセルが単純さという点で擁護していることをみました。
今回はさらに本能的信念という言葉を用いて、哲学はいかなる形で常識を擁護することになるのかを検討します。

これまでの(ラッセル以前の)哲学とは違う枠組みで思考する方法が提示されており、今回は特に参加メンバーの興奮が伝わってくる読書会になりました。

単純さという原理 前回の続き

前回の猫の例に加え、ラッセルは人間の例を出します。
私たちはだれかと話しているとき、その人の思考の表現を聞いていると考えるのが容易であります。
そのようにせずに、私が知覚しているのは単なる音のセンスデータであり、何の意味もないと受け止めるのは非常に難しい、とラッセルは言います。

前回のレポートで、単純さの定義が曖昧であることを指摘しましたが、この例から察するに、思考の容易さのことを言っているのでしょうか。
参加メンバーが「自然さ」と言い換えてくださり、なるほど!と一度思ったのですが、「私たちの知覚は夢にすぎない」という非常識な考えと、物的対象を措定する常識的な考えのどちらを選ぶのかの基準を自然さ(習慣的な思考方法の容易さ)とした場合、とうぜん常識の方が優位になるので、少しおかしな議論になってしまうな、とも思いました。
なので、判断基準は、両者に中立的な基準としたいのですが、ラッセルのこの箇所の記述のみではなんとも言えません。

ラッセルの考えでは、単純さを基準とすれば、自然な見方(常識的な見方)になると考えているようです。
なので、単純さは自然な見方とは異なっているという点は理解することができます。

したがって、どのような場合を想定したとしても、単純さを原理とするなら、自分自身とそのセンスデータだけではなく本当に対象は存在し、私たちが知覚せずとも存在するのだと言う自然な見方を取るようになるのである。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 30頁

本能的信念 instinctive belief

やや唐突にですが、ラッセルは本能的信念という概念を提示します。
本能的信念は、ラッセルの主張する哲学の重要な概念となっています。

もちろん、私たちは議論を通じて、自分から独立な外界があると信じるようになるのではない。自分の考えをふり返るようになったときには、すでにそう信じている自分に気づく。つまりそれは本能的信念だと言えるだろう。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 31頁

唐突と言いましたが、議論の流れとしては次のようになるかと思います。
単純さを基準にすれば、物的対象が存在するという自然な見方を選択するようになる。しかし、このような選択と、物的対象に関する議論によって外界を信じるようになるのではなく、自分を振り返っていくつかの可能性(私の知覚するものは夢であるなど)を吟味した後に、私たちが日常の前提としていた外界に対する信念が浮き彫りになる、という感じでしょうか。

例えば、いくら私の知覚が夢であると主張したとしても、トラックに関するセンスデータが自分に突っ込んで来ようとしたら、それはセンスデータではなく、外的な事物であると判断して避けようとするかと思います。
いくら哲学によって私たちの見ているのは夢だと主張しても、私たちの生活に戻れば、そのような哲学は私たちの行為によって否定されてしまうのです。
このような本能は、野蛮なものではなく、環境と身体が相互に関わることによって形成された知識でもあるかと思います(ラッセルは進化論に対してあまり好意的でないようい感じるので、この解釈はあまりよろしくないかもしれません)。

訳者の高村は次のように明瞭に解釈しています。

その信念は「我々は否応なくそれを信じざるをえない」という含みがそこに込められている。つまり、それが間違っているという論理的な可能性はあるにせよ、我々は実際上それを信じざるをえない、それらを拒否すると言う選択肢は我々り与えられていないとされていると思われる。デカルト的な懐疑の可能性を認めつつ、外界の存在を受け入れることから出発するという『哲学入門』の探求方針がもっともらしいと思われるとすれば、それは外界の存在が以上の意味で本能的信念であり、それを受け入れる以外、我々はいかなる仕方であれ探究を始めることができないとされるからであろう。

高村夏樹『ラッセルの哲学 [1903-1918]』, 勁草書房, 2013年, 315頁

なお、本能的信念はラッセルのオリジナルな用語ではありません。ただ、後に見るように、本能的信念による哲学形成に関しては独自の観点があると言えるでしょう。
スコルプスキは『哲学入門』の解説で、J.S.ミルとスコットランド常識学派のトマス・リードの名前を挙げて本能的信念について簡単に論じています(226-30頁)。
リードはヒュームの懐疑論(現在の研究ではヒュームの自然主義的な側面の方が強調されているかと思いますが)、つまり観念説の帰結を克服するために外的な実在を想定した人です。ミルは、本能的信念を用いているものの、それを人間本性に基づけてしまっているようです。
また、もちろん、現在ではリードからのムーアへの影響関係は認められているようですから、ラッセルの背後にリードとミルのみならず、ムーアを見るべきかもしれません。

このことからスコルプスキは、ラッセルを英国経験論(イギリス的伝統)の文脈(リードもミルも英国人です)で読み取ろうとしています(もちろん違いがあることも強調しています)が、訳者の高村は合理主義的な側面を強調しています。
特に272‐4頁がこの箇所に関わる文章になっています。
スコルプスキは、用語の導入に注目しており、高村はラッセル哲学の方法論の構造に注目した解釈かと思います。
また、本能的信念に関する鋭い批判は、高村夏樹『ラッセルの哲学 [1903-1918]』, 勁草書房, 2013年, 315-7頁にあります。

参加メンバーからは、本能と関わらないところに哲学的真理があるのではないか、や、荒唐無稽なことを言う哲学よりも日常の生に注目しており受け入れやすいというコメントをいただきました。
私も『哲学入門』をはじめて読んだときは前者の感想をもちました。
ラッセルが前者の立場を取らなかった理由としては、英国観念論に対する批判としての哲学を形成したからではないかと説明しました。英国観念論については202-3頁の訳註を参照しました。

ラッセルは、知覚の外部にある物的対象が存在することを証明することせずに、その存在に基づく自身の哲学について次のように言います。

この結論を手にするために使った議論は、期待されほど強力ではない。それは否定できないが、しかしこれは哲学的議論の典型とも言えるものなので、この議論が持つ一般的な特徴と、その妥当性は一考に値する。本能的信念に基づかなければいかなる知識も成立せず、それゆえ本能的信念を拒否すれば後には何も残らない。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 31-2頁

これまで(ラッセル以前)の哲学(特に観念論)の批判として提示している説であるはずなのに、自身の説を「哲学的議論の典型」と表現しているところがまた面白いです。無意識なのか、皮肉なのか気になるところです。
『哲学入門』というタイトルから連想して、常識から哲学をはじめるのが典型的であるとはあまり思わない方がいいかと思います。
少なくとも現在流布している哲学史に関しては、常識から議論を始める哲学は哲学的議論の典型ではないように思います。

しかし、まったく誰も似たことを論じていないかというとそうではありません。同世代のムーアもそうですし、十九世紀にはリードが同様の議論をしています。以下はリードに関する研究からの引用です。

われわれが基本的に存在すると信じている物質的事物の存在や他者の存在は、それらが実在することが論証されるべき対象ではなく、むしろそういったものを前提して初めて行われるものなのである。それらは常識的な信念としてわれわれが心の働きや知識の問題を考える上での枠組みをなすのである。

戸田剛文「バークリとリード」, 『観念説と観念論』, 佐藤・松枝・渡邊編, ナカニシヤ出版, 2023, 59頁

本能的信念を用いた哲学とは?

それでは本能的信念を用いた哲学とはどのような哲学なのでしょうか。

やや一面的な解釈になりますが、デカルトのコギトに端を発する観念説は、ヒュームの懐疑論という帰結に終わりました。そして、私たちの知覚から独立した外界が認められなくなりました。大げさに言えば、私たちの知覚は夢といっても差し支えないものとなりました。
それに対して、スコットランド常識学派のリードは常識を出発点とする哲学を主張しました。

スコルプスキの指摘通り、この点はラッセルと似ていると思います。
しかし、リードが第一の諸原理としていくつかの常識を提示したとき、その常識の選択理由が見えてきませんし、その諸原理の可謬性を認めていたとしても、いかなるかたちで誤りであると判断し、他の原理を導入するのかという構造が明確であるとは言えないのではないかと思います(ただこの考えは検討が必要かと思っております。リードに関しては、岡本「十九世紀スコットランドにおけるトマス・リード」、『観念説と観念論』の第一部第三章が比較的短く読みやすいかと思います。一冊の本になりますが、リード『人間の知的能力に関する試論 上下』、長尾『トマス・リード』、中元『トマス・リードの「常識」を読み解く』もおすすめです。また、ラッセルが影響を受けた、ムーアの常識については『懐疑論』が一部扱っています。こちらは哲学の入門としてもおすすめです)。

リードに対してラッセルは、議論の始めは強く抱かれる信念から始めるというやや恣意的な観点をもちますが、しかし最終的ないくつかの常識(本能的信念)の決定について、体系的な調和という観点(それによって複数の人が確認して納得し合えるようになっている)から信念が取捨選択されたり(この点関しては下の可謬性に関する引用も考慮しなければならないかもしれません)調整されることを述べています。

本能的信念の中には、信じられている強さに違いがある。さらにその多くは習慣や連想を介して、本能的ではない信念―しかし誤って本能的だと思われている信念―とからみあっている。
 哲学は、最も強く抱かれている本能的信念から始め、ひとつひとつ取り出してはそこから余計な混ざりものをそぎ落としながら、本能的信念の階層構造を示さなければならない。そして最終的に提示される形式では、本能的信念は衝突しあわず、調和した体系をなすことを示さなければならない。他と衝突するということ以外に本能的信念を退ける理由はないのだから、調和した体系を成すことが分かれば、本能的信念の全体は受け入れるに値するものとなる。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 32頁

本能的諸信念の取捨選択や、それらの関係についての構造が指摘されました。
私たちの確実な知識を土台として、様々な事柄を積み上げる(デカルト的)のではなく、いくつかの信念との「関り」によって知識の確かさが確保されるかたちでしょうか。

しかし、具体例がないとあまりイメージがわきません。
ラッセルが出している信念は、物的対象が存在するのみのように感じるからです。
こういうイメージの湧かなさが哲学の難しい部分でもあります。


まず階層構造ですが、これは信じられる強さが「より」強い信念を土台として、他の信念を積み上げていくことだと思います。
しかし、さらに、例えばどのような信念があってどのような階層構造をしているのか書いてほしいものです。

ラッセルは言っていませんが、例えば、「私は宇宙の一部であり、宇宙は私がいなくなっても存在する」、「私は身体を持つ(、そしてそれは人間の存在しない状態の宇宙から、進化を通じて存在することになった)」という信念があった場合、「私は身体をもつ」という信念は、「私は宇宙の一部であり、宇宙は私がいなくなっても存在する」を土台として、その上に置かれることになります。なぜなら、宇宙が存在しなければ私の身体は存在しないからです。
んー書いていて少し微妙な例のようにも感じていますが。ムーアを意識して書いてみました。

次に衝突し合わず、調和した体系をなすということですが、こちらも例がないように感じていました。
しかし、訳者高村はラッセルの文章から、次のような衝突の回避の例を読みとっています。

第2章、三三ページの最終段落から末尾にかけてが、ラッセルが自分の方法論について述べたところである。それを一言でまとめれば、本能的信念の体系の内部にとどまり、そこから不整合を取り除き斉合性を高めることで、蓋然性の高い洗練された世界観を得ようとすることだと言える。たとえば第1章から第2章までの議論は、この方法論を適用した実例になっている。第1章で「テーブルのようなものは、さまざまな視点から違ったように見える」ということから「見えているもの、すなわちセンスデータは実在のテーブルそのものではない」という帰結が引き出されているが、この議論はテーブルのような実在のものやそれを含む公共的な空間の存在を前提としている。問題なのはそれらの前提と「見えているのはテーブルそのものだ」という本能的信念とが衝突することであり、テーブルとは別の物としてセンスデータを立てることで衝突が回避される。

高村夏樹「訳者解説」, ラッセル『哲学入門』, 筑摩書房, 2005年, 273頁

これまでの議論がここで主張されたラッセル哲学の実例であったというのは、非常に鋭い指摘です。
第一章と二章にかけてテーブルに関するセンスデータは実在のテーブルではないということを確認し、今回の読書会で「自分から独立な外界がある」という本能的信念が存在することに気づきました。
しかし、「自分から独立な外界がある」という本能的信念は、「見えているのはテーブルそのものだ」という本能的信念は衝突してしまいます(独立しているということは完全に同一のものとしてテーブルそのものを見ることはできない、ということでしょうか)。
それに対してラッセルは、センスデータ論を通じてその衝突を回避しようとするのです(センスデータは実在のテーブルそのものではないが、独立な外界を前提とすることで、テーブルに対応する何かであるという回避だと私は解釈しています)。

ところで、ラッセルの哲学体系は、最も確実なものにあぐらをかけない構造になっています。確実な哲学の第一原理からあらゆるものを導き出すのではなく、さまざまな本能的信念の調和的(体系的)な関りが確かさを形成するからです。
調和のバランスが崩れたら確かだと思っていた本能的信念は確かさを失う場合も生じてきます。
なので、本能的信念の可謬性について考慮する必要があるでしょう。
ラッセルは、本能的信念が誤っている可能性をリードと同様に示唆していますが、それが誤まるのはいかなる場合なのかも明瞭に論じています。

無論、私たちの信念が一つ残らず間違っていることもありうるのだから、何を信じるにせよ、少なくとも一抹の疑いは持つべきであろう。しかし、ある信念を拒否する理由になりうるのは、他の信念以外にはない。それゆえ、誤りが残っているかもしれないが、信念の相互関係と前もってしておいた批判的吟味によってしておいて批判的吟味によって、知識の体系に誤りが残っている可能性を減らし、秩序ある体系を組織することができるのである。しかもそれは、基礎となるデータとして本能的に信じられることだけを認めるような体系である。そのためには、本能的信念とその帰結を整理し、それらを改めたり捨てたりしなければならない場合に一番しやすいのはどれかを考えればよい。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 32-3頁

例えば、「自分から独立な外界がある」という本能的信念も誤っている可能性はあるわけです。
しかし、その本能的信念を否定するのは、他の本能的信念との関わりや、その関わり中で別の本能的信念の方が体系的に不都合がない場合に限られるのです。
ある人との好みによって決まっているわけではありません。

このようにして、「自分から独立な外界がある」ということを証明できるわけではないのですが、だからといってそれを本能的信念として受け入れることは、決して恣意的な選択にはならないわけです。

以上の議論について、参加メンバーから、デカルトが方法的懐疑によって取りこぼした事柄をラッセルは補おうとしているのではないか、とご指摘いただきました。
現在議論している第二章にデカルトのコギトの議論がでてきました(第五回のレポート)。
一見、本章におけるデカルトの議論の地位が曖昧であるように感じてしまうのですが、このご指摘でなぜデカルトを議論に出したのかが明瞭になったかと思います。

ラッセルの補足を一言で言えば、デカルトとリードの折衷をしているような感じがします。
リードはデカルトに端を発する観念説を拒否して、常識―デカルトが取りこぼした、懐疑にさらした常識―に基づいた哲学を形成しようとします。
それに対してラッセルは、(デカルトの)観念に近いセンスデータを軸に議論を展開しつつも、リードの主張した常識を哲学体系の前提と捉えています。
そして、その前提は確実な土台ではなく、センスデータや他の本能的信念との議論の関わりから吟味される蓋然的な前提なのです。
このことによって、合理性を確保しつつも、私たちの常識を補う哲学を形成しようとしたのです。

ラッセル哲学

私がはじめてラッセル『哲学入門』を読んだとき、私は哲学に助けを求めていました。
宇宙に関する完全な知識を得て、そこにやすらいたいと考えていました。
なので、この章にはとても受け入れられなかったのを憶えています。

しかし、そんなことが人間に、しかも、たった一人の哲学者によって実現できることなのでしょうか。
科学者集団が長い時間をかけて徐々に宇宙に関する知識を蓄えているのに、多くの哲学者は「私がこの宇宙の根本的実在の本性を発見した」と考えているように思われます。

ラッセルが『哲学入門』で提示する哲学は、より謙虚なものですが、だからといってこの世のことは全く知りえないんだというものではありません。
完全に物事を把握できるんだ、というわかりやすく大げさなものではありませんが、この宇宙に存在するちっぽけな人間がある程度の確かさでもって知識を形成できる絶妙な場所を突いているように感じます

少なくともこの役割なら、哲学は果たすことができる。大半の哲学者は、正しいかどうかなともかくとして、哲学にはこれ以上のことができると信じている。哲学が、そして哲学だけが統一された全体としての宇宙に関する、そして根底的な実在の本性に関する知識を与えることができるのだと信じている。これが正しいにせよ間違っているにせよ、今まで述べてきたもっともつつましい役割なら哲学は確かに果たせるのであり、いったん常識の妥当性を疑い始めてしまった人に、哲学の問題が含んでいる骨折り仕事を納得してもらうにはそれで充分である。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 33頁

ここまで読んでみると、ラッセルの『哲学入門』は、これまでの哲学への入門ではなく、これからの哲学の入門であるということがわかります。
哲学的議論が先行するあまり、常識を疑い始めてしまった哲学に抗して、ラッセルは新しい哲学の方向性を提示したのです。

おわりに

これまでの多くの議論が今回の箇所につながっていたのもあり、今回のレポートはずいぶん長く書いてしまいました。
次回からは復習しやすいように短さも意識していきます。

次回第三章も非常に楽しみです。

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