第八回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート
第八回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

第八回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

2024年7月23日に第七回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
第3章 物質の本質 のはじめから、37頁の一行目「…視覚空間でもありえない。」まで読みました。

前回は、ラッセルの哲学の方法が提示され箇所を読みました。今回からはその内容に踏み込んでくことになります。

二つ目の問の探求

第二回目の読書会の内容になりますが、ラッセルは14-5頁において、私たちの知覚(ないし心や精神)から独立する実在(物質)に関する二つの問を立てています。

(1)そもそも実在のテーブルはあるか。(2)もしあるのなら、それはどんな対象でありうるか。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 14-5頁.

第2章で見たのは(1)についてです。知覚から独立する何かがあるというのは、根拠に基づいて論証できないが、しかし、それを信じることは合理的であることを前章でみてきました。

第3章でやるのは、(2)というさらに一歩進めた問です。
つまり知覚から独立する物質の本性とは何かを探求することになります。

ちなみに、私の知覚から独立する実在を観念論も認めていますが、観念論はその実在を肯定するために、神や絶対者という新しい知覚者をもちだします。
しかし、そんなこは認められないとラッセルは考えています(第三回第四回)。

そのため、ラッセルは、(おそらく)議論が観念論の方向へそれないように、上の二つの問を次のように変換しています。

(1)そもそも物質のようなものがあるか。(2)もしあるのだとしたら、その本性は何か。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 15頁.

ですから、第3章のタイトルは物質の本性ですが、単に科学における物質の特徴を吟味するのではなく、観念論ではないかたちの実在の探求と考えておくのが妥当だと思います。

したがって、物質の本性を探求する問の提示も、お馴染みのセンスデータ論の文脈からラッセルは記述をはじめます。

目を閉じれば色は存在しなくなり、触れている手を離せば硬さの感覚が、こぶしで叩くのをやめれば音が存在しなくなる。しかしこれらすべてが消え去るとき、テーブルも消えたのだと信じたりはしない。その反対で、テーブルが存在し続けるからこそ、目を開け、手を置きなおし、ふたたび叩き始めるなら、さきほどのセンスデータがすべて再現されるのだと信じている。では、知覚から独立に存在し続けているとされる、この実在のテーブルの本性はいかなるものか。この章で考察しなければならないのはこの問題である。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 34-5頁.

物理学における物質

第一段落で第3章の導入が終わり、第二段落から議論は個別的な話題に移ります。

ラッセルはまず、物質の本質について物理学がひとつの答えを出しているといいます。
『哲学入門』の出版当時、一般的に物理学はエーテルの存在を仮定していたので、ラッセルはエーテルについて論じています。
なお、アインシュタインの相対性理論によって、エーテルの存在は否定されます。アインシュタインの相対性理論が一般的に受け入れられるのは、第一次世界大戦後になります。そのことについては、スタンレー『アインシュタインの戦争』が参考になります。

ここでエーテルとは、空間内に満ち満ちた物質のことを意味しています。
当時、光は波の一種であると考えられていましたが、その波がなぜ伝わるのか明確にわかりませんでした。
例えば海は波を打ちますが、水がなければ波はできません。ですから、波によって伝わる光があるということは、空間に波を伝える媒質(水)がなければならないのです。
なので、物理学は波を伝える物質をエーテルと仮定して議論を組み立てました。ですので、エーテルは空間に満ちた水のようなもので、波を伝え、私たちの知覚を促します。

ラッセルは物理学者が「光は波である」と言うのに注目します。
このような言葉は「光=波そのもの」という誤解を生むかもしれませんが、物理学者が本当に言いたいのは、そのような意味ではありません。
なぜなら、私たちが見ているのは、光であって、決して波ではないからです。

つまり、私たちはエーテルの波を目に受けますが、感覚するのは光なのです。
このように、「「光は波である」と言うときの本当の意味は、波が光の感覚の物理的原因だということにほかならない」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 36頁.)のです。
そして、他の感覚も同じように、物質が原因となっていると言います。

それではこのことからラッセルは何を言いたいのでしょうか。
この段落には書いておらず、次の段落から物理空間の話になるのですが、その箇所を考慮すると次のようになるのかと思います。

物質の波と感覚の光は存在の仕方が全く異なる。しかし、物理学の物質は、私たちの感覚の原因である。したがって、私たちの感覚と物質は、類似していないが、結びついている、と言うことができる。

おわりに

まだ一段落分見ていませんが、次回の読書会の箇所と関わるので飛ばしてあります。
物理学の物質の話は、単独で見たらなぜそれが記述されているのかはわかりにくですが、これからの議論で徐々に回収されてくるかと思います。

しばし、話題の提示に付き合っていきましょう。

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