第九回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート
第九回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

第九回 ラッセル『哲学入門』読書会 レポート

2024年8月6日に第九回ラッセル『哲学入門』読書会がありました。
37頁の二行目「さらに視点の違いにより…」から、39頁の第一段落の最終行「…この物理空間である。」まで読みました。

前回は、第一章で提起された問と、本章(第三章)の問とのつながりを確認し、物理学の物質と私たちの感覚の関りを論じました。

今回は、物理学(実在)の空間と私的な空間との関りを論じていきます。

実在の空間と私的空間

ラッセルは、色や音が物質の世界に欠けていることを確認した後に、物質の世界には、視覚や触覚による私的空間も欠けているといいます。

例えば、並木通りの入り口に立って、ずっと先の方を眺めてみると、並木が中央へ集まり、道が狭まるように見えます。

しかし、そのように感覚したとしても、実際にはそうでないことを私たちは知っています。おそらく等間隔で並木が配列されており、道が狭まることはないと考えています。

このように、私的空間と物理的空間はまったくもって同一ではないけれど、何らかの仕方で結びついているだろうと考えることができます。

そのため、次にラッセルが問うのは、では具体的にどのような結びつきなのかということです。

したがって、科学が扱う空間は、見たり触れたりする空間と結びついているものの、それとは同一ではない。それゆえ両者がどのように結びついているのかを調べる必要がある。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 37頁.

なお、ここまでの議論を受けて、どんどん新しく更新されていく科学に実在の領域がよかかってもいいのか、というご指摘をいただきました。
絶対空間のようなものも、前回みたようにエーテルも、現在その存在を肯定する立場はほとんどないのですから。
私もそのような疑問をもつ立場であります。

視覚の空間と触覚の空間

触覚や視覚の空間の違いって具体的にどうのようなことなのか、というご指摘をいただき、大変盛り上がりました。

一般的には、目の見えない方が、開眼手術を受けた場合、空間的な認識がはじめからできるわけではないと言われています。
はじめは目に色が張り付いているように見えますが、触覚から捉えられる形と視覚の色を連動させることで、徐々に目が見える人が日常的に知覚する空間感覚を形成できるようになります。

しかし、その説明だと触覚特有の感覚と、視覚特有の感覚がはっきりしないというご指摘がありました。

ピアジェの認知発達論なども例としてでてきました。

最終的には、伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどうみているのか』, 光文社, 2015年 に関わる議論を紹介してくださり、だいたいの同意が得られました。
以下はある講演会の実験例だそうで、本書に紹介されているかは未確認です。

それは、目の見えない方に絵を描いてもらったらどうなるのか、というもので、結果は二次元的(平面的)ではなく、三次元的(立体的)に絵を描く傾向が見られたそうです。

あと、ピアジェの認知発達論では、幼児の絵は二次元的であり、視覚に頼ったものになっているというご指摘も参加者からいただきました。

このように考えると、視覚の空間は色彩のある平面で、触覚の空間は色彩のない立体というのが特徴としてピックアップできるのかな、と思います。

この特徴は、開眼手術をしたときに、はっきりと空間感覚を養うまでの、視覚と触覚の連合とも重なるかと思います。
視覚だけでは、色があるだけで、それを触覚による形の知覚によって、色を三次元的に分配していく感じでしょうか。

ラッセルの議論の本筋からはそれてしまいましたが、このようにその時気になったところを議論できるのは、この読書会の非常に素晴らしいところかと思っています。

私的空間と実在の空間はいかに関わっているのか

ラッセルは、両者の関わりについてこれから徐々に議論を深めていきます。
今回はその一部分を読み終えました。

ラッセルは、実在(物理)の空間を想定するということは、次のように私たちの身体を捉えることができると言います。

ここで重要なのは、「感覚が物的対象を原因とするなら、それらの対象と私たちの感覚器官、神経、脳を含む物理空間があるはずだ」ということに気づくことである。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 37頁.

私たちの日常感覚からしたら当然のことを言っているように感じますが、感覚から独立した領域への直接的な言及は当時の英国哲学では新鮮な議論でした。

とはいえ、ここでの強調点は、実在の空間における、対象と身体との空間的関係が、私たちの感覚に大きく関わるということだと思います。

例えば、触覚を得られるのは、対象と身体の一部が非常に近い時ですし、遠くにある対象が見えるのは、それと身体との間に不透明な対象がない場合であります。

このようにラッセルは身体と対象との空間内における配列関係について話題を徐々に移していきます。
空間内における配列に注目すれば、私的空間と実在の空間は「大体は」対応しているはずだ、と彼は言います。
先ほどの並木通り例を挙げれば、並木通りの出口は私的空間においては狭まって存在することになりますが、その出口が並木通りの向こうにある位置関係は、実在の空間と同じことがわかると思います。

科学や常識が受け入れているように、すべてを含む公共的な物理空間が一つだけ存在し、物的対象はその中にあるとすれば、物理空間内での対象の相互の位置関係は、私的空間内でのセンスデータの相互の位置関係と大体は対応するに違いない。これが成り立つと考えてみるのは、難しくとも何ともない。

ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 38頁.

このことは、例えば(ラッセルの例を借りれば)、近くに見える家と遠くに見える家があり、そこへと歩いたとき、見え方の違いが私的空間ごとにあり、それが物理空間と異なっていたとしても、大体はまず近くに見える家にどの見え(空間)も到着することからもわかります。

このようにしてラッセルは、「「物理空間が存在し、センスデータに対応する物的対象は、物理空間の中で互いに、私的空間内でのセンスデータの関係に対応するような関係を持つ」ということを受け入れてもよいのである」(ラッセル『哲学入門』高村訳, 筑摩書房, 2005年, 39頁.)と結論します。

とはいえ、結論しますと言ってしまいましたが、「受け入れてもよいのである」という少し含みがる言い方なので、そこは気にかけておくのがよいかと思います。

おわりに

物理空間(実在の空間)と私的空間がどのように結びついているのか、というのが今回からのラッセルの問でした。

一見常識的なことを述べているだけのように思いますが、現在のところ「物理空間内での対象の相互の位置関係は、私的空間内でのセンスデータの相互の位置関係と大体は対応する」という答えを得ています。

一歩一歩分析的に問に対する要素を抽出する論述はとても鮮やかです。

これからどのような要素を抽出していき、どのような答えを導くのか。非常に楽しみです。

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